「愛」の対義語に対する解釈
三日たたずに飽きるだろうと思っていたので、まだ続いていることに我ながら驚いている。
基本的に話したがりというか隙あらば自分語り野郎なので割と話すことには事欠かないのが原因だろうか。リアルだと人とあまり話さない時もあるが文面に起こすと結構喋り出したりするので不思議なものである。ちなみにHTMLはやっぱりまだ何もわかっていない。
本題に移ろう。そのままだが、「愛」の対義語についてだ。
深読みや解釈の大好きなオタクなので、つらつらと語っていこうと思う。
解釈違いを起こした際は「爆発するタイプの地雷です!!!!」という方は申し訳ないがそっ閉じしていただければと思う。爆風をこちらに向けられると軽率に吹っ飛ぶし引火してメンタルが死ぬつくりなのだ。
「私はこう思う」という方ならぜひ教えてほしい。熱量のあるオタクの解釈語りが健康に効くタイプのオタクをやっているから。
そんなわけで。
「愛」のそもそもの辞書的な意味は何なのか。
google検索エンジンにぶち込んでみた。
『 そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持。
・かわいがり、いつくしむ心。「子にそそぐ―」。いつくしみ恵むこと。「神の―」。いたわりの心。
「人類―」
・大事なものとして慕う心。
「母への―」。特に、男女間の慕い寄る心。恋。 』
なるほど、という感じである。「そのものの価値を認め」でも小一時間語れそうだし「強く引き付けられる」、「大事なものとして」でもそれぞれ解釈戦争が起こりそうである。
「愛」の説明文に「恋」という言葉が入っているのも興味深いなと思う。
それでは辞書的な対義語である「憎」についても同じように。
『 根深くにくむ。心の底にねたんできらう。
「愛憎・憎悪(ぞうお)」 』
だいぶすっきりしている。マイナス感情の方が簡潔に説明してあるのはなぜだろうか。
人間、好意よりもこちらの方が本能的に理解しやすいのだろうか。(クソデカ主語)
とりあえず、一般的な意味はここまで。メインはここからだ。
そもそも、私の中での「愛」という言葉の感覚を示しておく必要が恐らくある。
簡潔に言ってしまうと、
「クソデカ感情の一種。抱えきれないエゴが好意的に捉えられる方向に露出したもの」
である。もちろん個人の解釈。
「好意的に捉える」という言葉の主語は誰だっていい。感情を抱く本人でも、向けられる当事者でも、傍観者でも。とにかく「それは愛情である」と感じる存在がいれば、そう感じている者にとっては紛れもなく愛情である。
そして私の中では「憎」は「愛」の類義語だ。
「殺し愛」なんて言葉が世の中に存在する。
両者の間にあるのは「自分のものにしたいから殺そうとする」という、いわゆる「そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持」に相当するものかもしれない。
しかし全てがそうだろうか。
間にあるのは「根深くにくむ。心の底にねたんできらう」気持ちでも、私たちが勝手に「そんなに思いあっているならそれは愛である」といっていることだってあるじゃないか。
ならば、愛憎、という言葉は対義語ではなく類義語を並べたものになるだろう。
「対になる言葉」という言い方は便利なものである。
では、「愛ではない」すなわち「not愛」とは、私の持つ言葉のどれに相当するのか。
感情を示す言葉からは外れるだろう。なぜなら感情というものは主観と客観でいくらでも意味合いが変わるからである。だからこそ一部の人の大好物、「それ、恋なんじゃない?」が成り立つのだ。私も好きだし。
話がずれた。
感情でなければ何なのか。
感情の対義語は理性である。ならば、愛の対義語は理性だろうか。
それも違う気がする。
なぜなら、「理性的な愛」は成立するからだ。
矛盾の生じる言葉としての「理性的な愛」もあるが、「理性的に」己の好意的なエゴを制限している、とも取れる。なんて面倒なんだ、私の解釈は。
じゃあなんなのか。理性ではない。憎では勿論ない。
無関心。しかしそれも何となくしっくりこない。今考えているのは「愛」の補集合的存在であって空集合ではないのだ。数学嫌いゆえ言葉の意味が違っていたら申し訳ない。後程しっかり教科書を読みなおすのでここでは許していただきたい。
思考を戻す。
「愛」。
文豪の愛の言葉がまとめられることは多々あれど、相手を憎む言葉はあまりまとめられて……よく考えたら悪口がまとめられていた。それも割とたくさん。
軽い気持ちで書き始めたが、結構難しい話題だったかもしれない。
これではまるでアントとシノニムの遊びだ。
およそこの世で最も愛らしくないもの。
花のアントは女で臓物のアントは牛乳だった。
愛という実体のないものに対しては実体を持つものを上げるべきだろうか。
機械。教科書。宝石。段ボール。
何となく頭に浮かんだ言葉を書き連ねてもいまいちだった。
愛がエゴなら、利他主義はどうだろう。しかし利他主義が愛ではないとすると福祉団体なんかを否定することになりそうだ。もちろんエゴのためにやっている人もいるだろうけど。
頭に糖分が足りなくなってきたのでこの前買ったロリポップを取り出す。
そうだ、砂糖。
なんの意思も持たず、存在するだけの、甘さという電気信号を私たちに伝えるだけの物質。
そもそも甘さなんて名前も人間が勝手につけたのだ。砂糖がそうあろうとして甘くなったわけではない。つまり感情でも理性でもないのだ。
そう考えると、最も愛らしくないものは砂糖かもしれないと思えて来た。単純な人間である。
そも、「愛情たっぷり♡」なんてうたう手作りお菓子は割と相手の健康を気遣って砂糖を控えるじゃないか。
愛を込めると必須な材料である砂糖が減らされるなら、砂糖は「not愛」にあたる!
なるほど、屁理屈に過ぎないが自分の中で妙に納得がいった。
愛のアントは砂糖だ。
好意的なエゴ、愛の対義語とは、たっぷり込められた甘ったるい砂糖だ。
考えついてから結論に達するまでがあっけらかんとしすぎて竜頭蛇尾感があるかもしれないが、暫定で私の考える「愛」の対義語は「砂糖」としておこうと思う。
可愛い、すなわち「愛することが可能」または「愛す可し」は、それが「愛」に関与せずとも存在するからこそ成立するのだろう。
つまり、私が今咥えているいちご味のロリポップは「およそこの世で最も愛らしくないもの」にあたる。
長々とお付き合いくださった方、「いや、それは違う」でも「そうかもしれない」でも「これはこうじゃないか」でも、何かあれば教えていただけると嬉しく思う。
それではこの記事はここで終わりだ。
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