泥濘の夢に咲く
物心ついてからこの方、記憶の続く限り、ずっと、夢だけを見ながらぼんやりと生きているような気がする。様々な夢を。叶わない夢を。非現実的な夢を。自分の中で育っていく醜い色で酷い腐臭のする夢だけをただ見つめながら愛しながら憎みながら、それだけを。
それが正しくないことであることと、それが現実的でないこととをちゃあんと知っておきながら、まだ夢から目が離せないまま、じぃっと見つめて静かに息を殺して夢から漂う腐臭の中ゆっくりと中毒死していくような毎日を送っている。
夢を叶えるための努力とはなんなのだろうか。夢を叶えられる環境とはなんなのだろうか。天賦の才と時の運と恵まれた周囲と、あと何があれば夢というものは叶うのだろうか。夢を叶えながら生きている人達はどうやって生きているのだろうか。
私の見る夢の先にはただ一つ死があり、破滅があり、終末と終焉と空虚な満足感を一緒くたに煮込んだような泥濘のような濁った空が広がっている。海かもしれない。街かもしれない。家かもしれない。
頭の中で響く様々な声に耳を塞ぐことも能わず、頭の芯で聞こえる様々な声を全て信頼することも能わず、頭の表皮で鳴り続ける音楽に身を委ねることも能わず、私には何ができたのだろうか。
将来が暗い。明日が暗い。今日が暗い。昨日はどうだったかと言うともう覚えていない。恐らく暗かったのだろう。陰鬱の二文字が満たす脳の半球は甘やかな死の匂いがしている。それは死であり、香水であり、生命である。まともではない頭を振りながら、まともではない夢を見て、まともではない現実のまともではない生活態度に苦しんでいる。
廃人のような生活。なにかに追われている。時間に現実に追われている。家族関係に愛情に追われている。まるで感じることの出来ない暖かな感情を出ることも無い寒空のベランダでずっと遊ばせている。幾層か重ねた生ぬるい体温の匂いのする布団の中でずっと過ごしている。全てが溶けていくような感触と全てが冷えていくような感触がずっと並立している。
夢を見るのは何歳からだって遅くない、夢をあきらめないで、いつかチャンスは来る、そんな言葉を言説をいつまで信じ続ければいいのだろう、いつまで縋り続ければいいのだろう。
努力は簡単に裏切り、とどかない夢を見るには遅すぎて、機会はどこにもやってこない。凡人以下がいくら手を伸ばそうと。口を開こうと。足を動かそうと。
夢を見続けなければならないというのは一種の呪いであり、時と場合によっては鎮痛剤であり、麻酔であり、劇物で毒薬である。私は夢を見すぎている。麻薬を、毒物を呑み込みすぎている。きっともう真人間にはなれないだろう。正気にももう戻れない。
芸術や夢や理想に幻惑されて、いつまでも中毒になって、狂気に陥っている。当然をとうぜんと読み陶然と夢と死に酔い、幸福をこうふくと読んで降伏して全てを諦めている。私はこの後何になるのだろう。戯れに行った占いでは夢を追い続けよと言われた。ならば負い続けて追い続けるしかないのだろう。泥濘の中で垂らされた一本の蔓は驚くほど甘美であった。
妄信出来れば幸せだったのだろう。
何もかも。
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