詩の詠み方についての持論

以下は全て持論であり、決まっている定義などではない、と言うのを了解の上読んで欲しい。



まず、詩とは。小説と何が違うのか。

どちらも多くは文字による、言葉による表現である。小説にもリズムは存在する。小説にも表現の巧拙は大きく出る。詩でも句読点は付けられる。

定型詩ならわかりやすいが、散文詩は小説と何が違うのか。

私が思うに、それは決め打ちの一言の多さである。

決め打ちの一言、とは、私が勝手にこう呼んでいるだけではあるが、要するに色々な意味の詰め込まれた「ここがかきたい」「これが決め手である」という言葉である。キラーワード、と言ってもいい。

小説や戯曲では恐らくひとつあれば十分だろう。それのために話を展開するのが物語である。

しかし、詩は違う。

少なくともひとつの連にひとつは、多い時は全ての言葉がキラーワードでないと物足りないような気がする。それが決まろうが決まらなかろうが、刺さろうが刺さらなかろうが、いくつもの丹精込めた会心の一撃がなければ、詩は詩たり得ない。


では、その会心の一撃はどう出せばいいのか。

これには様々な方法がある。

韻を踏む、語順を変える、音数を揃える、あえて支離滅裂にしてみる、わかりにくい隠喩を使う、他にもきっと色々ある。または、聞こえる音を既存の擬音に頼らず自分なりの表し方をするだけで、それは詩になる。と、私はそう思っている。

とにかく、普段から刃を研いでおくことである。

思ったことや浮かんだフレーズを声にしてみて、いいなと思ったらメモ帳に書き付けておくのが一番であろう。思い浮かんだのが風呂場などで即座に書き留められない場合はしばらく口の中に含んで口ずさんでみるのが一番である。噛んでいるうちに言葉が色を無くすことはあるが、逆に言えばそれでも色を無くさなかった言葉は確実に「決め打ち」となるだろう。

慣れてくれば声に出さなくてもこれはいいな、と思えるフレーズが浮かぶようになる。これに関しては自分の嗅覚とセンスを信じる他になかろう。


また、まず何よりも色々と詩を読むことである。俳句、川柳、短歌、狂歌、都々逸、ほかや定型詩、散文詩、他にも翻訳された詩などを読むのも良い。好きな歌詞を読み上げるのも良い。詩の詠まれた時代も近現代などに限る必要は無い。親しみ深いものでいえば百人一首などでも良い。丹精の込められた、感性の詰められた凝縮された言葉に頭を、頬を、全身を打たれる感覚を知っておくことは必要だ。限られた言葉による感動の感触を覚えておくことは大事だ。好きになれる詩人が出来たならその人のほかの詩を読むのが手っ取り早いし取っ付きやすい。


そして、小説や戯曲を読むことである。映画やアニメ、ドラマなどの物語を摂取することである。作者のキラーワードを探し、自分ならどう言うだろう、どういう表現ができるだろう、と考えることである。

これを読むと、「詩を詠むとはなんて面倒なのだろう」と思うかもしれない。しかしこれは詩を読むに限った話ではない。やり方を少しひねればほかの創作や生活にも生かせるノウハウである。それに、私がここで述べているのは所謂ポエムの書き方ではなく自分なりの詩の詠み方である。恋愛を歌うも己を歌うも自然を歌うも何を歌うも自由だが、自分がいいと思うものを増やすことが何よりも早い自分がいいと思うものを作り出す方法である。


また、慣れてきたら自分の中でルールを作るのも手である。「これが自分の中の『詩』である」と言えるものが確立されれば、詩を詠むことはぐんと楽になる。

しかし、ここでひとつ言っておきたいのは、全ての創作、全ての生活、全ての行動は誰かから見ればどれも痛いものであるという点である。痛くない詩を詠む、誰から見ても恥ずかしくないものを作る、と言うのはどだい無理なのだ。感性は人それぞれだから。全てに解は無いのだから。


なによりも、今の自分に恥ずかしくないものを作れたらそれで十分である。過去の自分が痛々しく見えることはままあるし、未来から見た現在の自分が同じように痛々しい可能性もある。しかし、今の自分にとって恥ずかしくなければ、それは十分にいい作品である。客観的に見た巧拙を問わず。



自己表現に教科書や正解はない。

どうか、満足のいく楽しい創作ライフを。

人生エラー

カフェイン依存系鍵垢在住底辺字書きの墓場

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