「演じる」への依存
TRPGのせいで人間関係が崩れた、みたいな記事を読んだ。それに対する感想ツイートで、「自分以外のものになりきることへの中毒感はすごい」みたいなものも読んだ。
なにしろ演劇をやっているものだから、少しわかるな、と思ってしまったので書き散らそうと思う。
「自分ではない何か」になる感覚。
「自分」を消して、「誰か」になる感覚。
これに、他では得られがたいものがある、というのは事実である、と思う。
自分が嫌いな人なら、否、自分が嫌いでなくとも、「他の誰かになれたら」と夢想したことはきっとあるだろう。
それを実現する感覚。中毒性がないわけがない。
私がやっているのは演劇だが、いわゆるRPでも得られることであるだろう。
TRPGはあまりやった事がないが、しかし、設定だけ決められたアドリブの会話でシナリオを進め、そのキャラクターに没頭していく感覚と言うのはどれほど自分を捨てられるものなのだろう。
下手をするとセリフの決まっている演劇よりも没入感のあるものではなかろうか。
自分の頭で何を言うか考えながら、しかし行動は自分ではない何かになるのである。
特殊な行為ではあるが、特殊であるだけ特別な行為である。
TRPGでは体は動かさないだろうが、演劇では頭の先から足の先まで自己を消して他人になる必要がある。演劇には大体練習期間があるから、その間は全身に「他人であること」を染み込ませる行為を繰り返すことになる。その過程でどれほど楽に息ができるかは人によるだろうが、私は普段より息がしやすくなるタイプの人種である。
自分を捨てるという行為がどれほど特殊で、どれほど甘美なものなのか。
それはやったことのある人間にしかおそらく伝わらないだろう。やったことのある人間なら、きっとわかる。きっとそうだと確信している。
演劇は楽しい。
他人になることは、息がしやすい。
きっと私がそう思うのと同じように、RPというものも楽しく、息がしやすいのだろう。
そこにお芝居上だけのものとしても、恋愛という大きな感情が絡めばどうなるかなんて、説明しなくたってわかる。
私はきっとのめり込みすぎて日常を捨ててしまうタイプなので、例の記事の恋人さんにはなんの批判もできない。
それがおかしいことも、普通でないこともわかっている。
しかし、どうにも、自己を消して他人になることにはやめられない味がある。
日常を放棄してしまうほどに。
本分さえ手放してしまうほどに。
自分は異常なのだろう。それはわかっている。なのでこれを読んだ人になんと言われようときっと反論はできない。
また、自己を消すことに慣れてしまうと、自分のままでいることに違和感ができてくることさえある。
すると自分自身でいることが嫌で、さらに演劇などにのめり込むことになる。
そうなってしまえばあとはもう全てを犠牲にして成功も失敗もなく破滅である。
これは、正しく依存の形であろう。
わかっている。私も演じることに依存している。
醜い自分を忘れるために他人になろうとし、客観視の結果醜い自分は捨てられず、結果としてさらに依存していく。
それが悪循環であることもわかっている。
しかし、私はもうその味を知ってしまった。
一度知ってしまえば知らなかった頃には戻れないのである。
演じることそれそのものは創作の一種でもある。
創作活動というものには須らくこのような一面があると思っている。
過去(本当に昔)にこのブログに創作は呪いだと書いたが、演じることもそれと同等なくらいの呪いだと思っている。
この呪いをとく方法を私は知らない。自分を好きになろうなんてことは軽率には言えない。好きになれるならとっくに好きになっているはずだから。
やはり、創作とはある種の逃避なのだろう。
逃避する必要が無くなれば自然と呪いも解けるだろうが、それは簡単なことではない。
決まった解決法なんてきっとないのだろう。その人にはその人自身の問題があって、その問題が解けるか否かもその人や環境によるのだろう。
私にも、きっと何か問題がある。生活がままならないような、何かが。
しかし今は一人暮らしで、周りの大事な人(主に友人)は本当に危なくなったら警告してくれる。し、まだ私はそれをちゃんと聞きたいという気持ちを忘れていない。
それにどれほどの効果があるのかは分からないが、まだ、日常全てを失ってはいないと信じている。
私は、いつまで人間でいられるのだろうか。
いつまで依存したまま生きていくのだろうか。
心地よい依存に浸かったまま、どこまで行けるのだろうか。
眠剤を飲んだあとの睡眠のような依存に浸かったまま。
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