水への恋しさ

なんとなーく、ぼんやりとしながらこの記事を書いている。なんなら目の前ではミュートにしたZoom、大学のコミュニケーション英語の授業が目下進行中。真面目に受けろと言われるかもしれないが、正直真面目に受けて「英語ができる人」と見られるのがいちばん怖いのでこれが一番いい具合の距離なのである。
ちょっとポエミーなタイトルにしてみたが、まあ要はそれだけの話を長々とする。
「ポエミー」って言葉がなぜか揶揄のような色を含むような風潮にも思うところはあるが、それはまた別の機会に。

水。飲料用ではなくて、要はプールだとか水族館だとか、そういう大きいもの。
(自分では覚えていないが、)2歳半からずっと水泳を習っていたり、辞めてからも何だかんだで体育の授業があって大きな水の中で泳ぐ機会があったものだから、ここまで自分が水に包まれる感触に焦がれるものだということを初めて知った。
正直なところ、頭の上まで水があればそれでいいような気もするので、多分水族館に行ければこのフラストレーションは多少解消される。勿論泳ぎたいけど。
日焼けとメイク崩れを除けば、水泳は美術だとか国語だとか、そんな教科よりもいっちばん好きだった。体育は別。水泳のみ。

その日初めて足をつけた水面の冷たさから、塩素の匂いと夏の日差しと濡れたコンクリートの匂いと自分の体温がじんわり馴染んで、溶けて、20何度の水がいっそあたたかく感じるあの瞬間。
ゴーグルが自分にとって必須なのはさておき、塗装のみずいろ一色のなかで目を開いた揺れる泡と水面を通した陽光の揺蕩うあの景色。
水を蹴る感触と水をかいた手が掴む不定形の硬さと、耳元を流れていく水のあの音。
呼吸が水に伴う、というか、水によって呼吸のタイミングが掴まれているあの感覚。肺を満たす夏の空気。そういうもの。
あれがすきだ。
大学生になった今はもう存在しない、私の夏。
そう考えると、夏が好きだった。

少し陸に足をつけて考えてみる。
水族館。
あの独特の音の響き方は、案外潜水中に似ている気がして好きだ。
アイレベル、よりさらに上まで水で満たされたガラスと、ひんやりした空気が肌全体を包むあの空間。ときたま大きく気泡の揺れる音が聞こえるような錯覚。歩いているのに沈んでいる、あの雰囲気。
現在は色々な要因で閉まっているが、プールがダメなら水族館に行っていた。きっと。
バイトを始めたが故に、好きな所へ行くにも罪悪感が少し薄らぐのだから。
嗚呼、私の夏が、恋しい。
私の愛する夏の情景が。
私の中での夏の季語が。
家で一人で籠る時期が長くなるほど、自由が制限されて精神がすり減るほど、それほどに恋しさが増していく。というか、増している。
寂しい、し、恋しい。
外の気温は、晴れた日ならもうすっかり夏である。
蝉の声はまだしない。
肌を焼く陽光はまだ夏よりも穏やかだ。
服装はじわじわと夏に溶けて行っている、ような気だけがする。

水が、恋しい。

結局数分でざっくりと書き終えてしまった。
語り得ない部分だって勿論あるけれど、そして「水が恋しい」という感覚はあまり共感を得られるものでは無いらしいけど、とりあえず久しぶりの自分語り長文(ブログ)はこの辺りで。
徹夜明けで仮眠が2時間の状態なのでこの授業が終わったら暫く寝るつもりだ。

人生エラー

カフェイン依存系鍵垢在住底辺字書きの墓場

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