残滓

夢とは、金と時間と労力のかかる娯楽であり、趣味である。
私にとってはそう認識する方が楽であることを、よりによって卒業式の日の夜に知ってしまった。
元々、私はずっと、声優になりたかった。
多分、小学生の頃から。


これは何度も書いている事だが、自分自身でいるのが嫌だった。
別に珍しくもないだろう。よくある自意識だ。
狭い視野のままで狭い門になど憧れなければよかった。今ではそう思う。
夢も、元は「日本に居たい理由」だった。
小学校5年生か6年生の時、両親の離婚に伴ってどちらかについていくことを選ばされた時分の話。
いっそ笑えるほど懐かしい。

母について行くと決まって、その後。
母の祖国へ帰るか、日本に留まるかという二択が私と姉にのしかかった。
そもそも私は生まれも育ちもほとんど日本だ。アイデンティティは日本で育った。
国籍と苗字だけがちぐはぐに「外国人」で、裏を返せば国だけ向こうへ行っても中身は日本人。
つまり向こうからすれば私はまた「外国人」だ。
母の祖国で数年を過ごした際は酷く苦しかった。
だから日本に居たいと思うのはおおよそ当然だっただろう。心理学なんて知らなくてもきっと。

でも、その時私は母に理由を求められた。
1年ほど前まで共通言語が母国語の場所から引き離されていたまだ11か12の子供に、上記のことがうまく説明できるわけが無い。
それでも母は絶対だった。世界は母の形をしていた。屈託無く母は自分の味方だと信じていたし、母の愛情は必ず自分のためだと思っていた。今となってはひねくれてしまって無条件にそう信じることは出来なくなったけど。

母を責めたいわけではない。その時の母に心理的な余裕がなかったことも理解した。仕方がなかったと今なら言える。新鮮な苦しみや痛みは忘れたのだからそれを持ち出すのはきっとお門違いだ。
その時の私に出せた「日本でないといけない理由」が、「日本で叶えたい夢がある」だった。
そんな理由で決めた夢なんて、きっと元から叶うはずがなかったのだ。


これはきっと喜劇である。



今日の夜、母からチャットが来た。
かつて私が行きたいと言った養成所の費用の話だった。
公立高校に受かれば行かせてやると約束されて、結局その後反故にされた所だった。
それもまた仕方の無い事だった。理解している。

言われたのは、大学入学にあたって費用がかかるということと、それでもまだ行きたいのかという確認の一言。
そこで考えた。
言ってしまえば、私はもう高卒だ。ちょうど今日卒業した。夢見がちな思春期の皮はもう脱げてしまった。下手に親の苦労を理解してしまった。
いわゆる「不安定な職業」や偶像への憧れだって、よくある気の迷いである。
気の迷いを貫き通せる環境が若くして整っていた人達の中で、さらに選別をかけられて、そうしてやっと生きられる世界である。
もう、無理だったろう。
始めるには遅すぎた。
諦める理由として、十分すぎた。
私は妙に冷静だった。
叶えられないことを環境のせいにできる期間は終わったのだ。
これまでの分、これからの分、負担をかけている家族へ安心を寄越さなければ後ろ指を刺されるのだろう。
誰からかって、勿論母か姉か自分からである。
大学のサークルだって、あまり望めないと思っている。だって結局娯楽には金がかかるのだ。
それならきっと、資格の勉強のためにバイトをして勉強をしてお金を貯めて地に足をつけて、そうやって将来の確実性を高めた方がきっといい。
きっと、それが正しい。
その旨を返信へ打ち込むことの悔しさ!
やけに鼻が詰まった。
泣く時に鼻の奥が痛くなるなんて嘘だ。
痛いと思う前に感情は目元から流れ出ているものだった。

これで晴れて私は卒業式の日に涙を流せた人間となれた。私は幸福な人間である。


創作なんて、今みたいにインターネットの片隅でひっそりと吐き出すだけでもできるものである。
叶わないものを追うよりも、まともな人間を目指す方が方針がわかりやすそうだった。
間違ってないよと誰かに言われたいからこうして記事にしたのかもしれない。
同情が欲しいのだろうか。そんなつもりは無いが無意識でそう思っているのかもしれない。
夢へ駆けている大人の姿を映したような推しのツイートを見て、ただぼんやり「凄い人だ」としか思えなかった。思考停止。
本当にどうしようも無い子供である。
早く大人になりたいと思った。
高校を卒業しただけでは、全て持て余すだけである。

私の幼い夢はきっと、3年ずっとダサいと言い続けた制服の形をしていた。きっとこれからどんどん身の丈に合わなくなって色々ときつくなっていく。だから多分、たまに思い出して眺めるくらいが丁度いい。
そう思いたい。

人生エラー

カフェイン依存系鍵垢在住底辺字書きの墓場

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