「女子高生」の死

久しぶりに記事を書いているような気がする。
日記ならある程度つけていたが表に出せるようなものでは無かった、というのが実際のところ。
何の話かと言うと、タイトルの通りである。
明日は、高校の卒業式だ。
「女子高生」は死んでしまう。
変な話だが、人生の半分ほど信じ続けていた私の人生の終わり時は明日だ。
明日のはずだった。



高校生活。約3年間。
正確に言えば桃や栗が育つのに1ヶ月ほど足りないけれど、とにかくそれくらい。
まだ大した化粧も知らないまま。野暮ったくて重い前髪と膝を覆う長いスカートと、勧められるままに選んだやけに大きなリュック。卒業アルバムに見切れて載った自分の過去の姿に、入学当初の自分を思い出した。
周りと比べて、どんどん自分が嫌いになって、近所のコンビニへ行くにもアイラインを引いてまつ毛をあげないとやっていられなくなった。
軽く巻いて、梳いて、整髪剤が乾かぬうちに櫛を通して束を作って。前髪は、少しでも乱れれば直さずに居られなくなった。
肌の一切透けない黒く厚いタイツに包まれた足の膝は、2回か3回折り込んだスカートにはもう包まれない。
登山用みたいな重苦しいリュックは、結局途中から色々な教材を置きっぱなしにするようになって軽いカバンに変えた。
日々を長いと思った。3年を短いとも思った。
変われないと思った。随分変わった気もする。


部活が大好きだった。何よりも心躍る瞬間に感じていた、ような気さえする。

やりたいからと、自分で居たくなかったからと、演劇部を選んだ。
時勢の関係で公演が潰れたものも含めれば、3年の夏までの2年半で書いた脚本は片手の指を超えた。男役だってやったし、自分とは似ても似つかない女の声だって出した。
教室内に組んだパーテーション区切りの舞台がまだ愛おしい。今までの役の大好きなセリフがまだ喉から呼び出せる。あの時の動きはそれぞれの関節が覚えている。照明の組み方、音響のタイミング、やり切ったあとの泣き出したいような達成感と疲労と寂しさ。
友人が居たから、途中から美術部も兼ねた。
中々上手く描けない自分の絵と周囲の絵を見比べて、勝手に感心して憧れて羨んで、私もそう描けたらと夢想して。色々と練習はしたものの、結局あまり理想には近付けなかった。
初めて向かい合ったイーゼルの、木の感触をまだ思い出せる。夏、真っ盛りになる前、クーラーのない美術室で飲んだ炭酸の弾ける感触がまだ喉を焼く。未練かもしれない。スカートの裾についてしまった数滴の絵の具は落ちないまま今日になった。


行事。日常。授業。試験。
どれも覚えているようで、記憶を辿れば標本を見ているような気がする。
友人は想像よりも多くできた。趣味の通じる相手がいることのなんと喜ばしいことか。人間関係は友人のみではないが、ここで語り出すと止まらなくなってしまう。
それほどまでに、色々な人と関わりを持った。
思い返せば、本当に充実していたのだろう。
私はきっと、幸福であるべき一人の人間だ。
色々なことがあった。楽しいばかりでは勿論なかった。思い通りに行ったことの方が少なかった。
一番はきっと家の事だったし、大学生になったとてそれが解決するわけでもなさそうだけど、とにかく私は今、どうやら、前を向くという概念を知ったらしい。
きっと、少しは俯瞰ができるようになった。
許せないと思っていたこともいつの間にか薄れてしまった。怒り続けることも憎み続けることも、勿論悲しみも、倦怠を産むから忘れてしまっただけかもしれない。その辺りはまだ分析できていないが、急ぐ必要はあまりないことを知った。どれも自分を守るために哀れみにすり替えてしまっただけかもしれない。今はそれでいいやと思える。
明日、3年かけて飲み干した「女子高生」は死を迎える。
3月の終わりまではまだ高校生といえど、私はもう制服を脱ぐ。華は散るものだ。

思えば、小学校も中学校も卒業の際に泣くことをしてこなかった。
思い入れがなかった訳では無いし、仲のいい友人との別れが無かったかと言われればそうでもない。席を有した校舎に、思い出ならきっと沢山、それこそ積めるほどに置いてきた。拾い損ねたままでいる。忘れ物をしたままでいる。
それでも過去、卒業式で泣いたことは無い。

明日、私は泣くだろうか。
きっとそうしようと思えば泣けはするのだろう。
だって本当に大好きな場所だったのだ。
大好きな場所になった世界だったのだ。
でも私は、それを表に出せるほどに学校で素直でいられるだろうか。
全ての事象が終わったあとに、帰って泣くのかもしれない。
ただ、せめて、「精一杯に楽しかった」と笑って写真を撮りたいような気もする。
そういえば、中庭の藤棚が綺麗に咲いている時に写真を撮ることはついぞ出来なかった。

私の生においての全ての経験は、どれだって創作のネタにしてしまいたい。
そうでないといけない気がする。
気のせいだろうけど、今はその誤解を大事にしていたい。まだもう少し、愚かなままでいたい。
過去は飾られることがないから美しいのだと誰かが言ったのを教科書で読んだ。
それを私はどこかで疑っていて、でもそれをどこかで信じている。
だからきっと証明したい。
何をだろうか。何かをだろう。
その答えもまだ出せていない。

本当に、随分長く書いてしまった。
私は、高校生であった自分をどこかに留めるためにこの記事を書いた。高校生の感受性をどこかに残しておきたいからこの文章を打った。
「エモい」の3文字に収めてしまうのが惜しかった。
どうにも詩的になってしまったが、どうにも自分語りに過ぎなかったが、それだけが確かだ。

人生エラー

カフェイン依存系鍵垢在住底辺字書きの墓場

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