死生観、のようなもの
久しぶりに筆をとった。というか、ずっと何かを書く余裕がなかった。
私の記事を読んでいる人が本当にいるかは分からないけれど。
「死生観(しせい-かん):死と生についての考え方。生き方・死に方についての考え方。」
広辞苑 第7版 より
重いテーマだと思われるだろうか。
変にませたガキだと思われるだろうか。
まぁおそらく人の目には大して触れないので許して欲しい。
これは、私にとっては、この上なく親しく近い場所にある話題である。
覚えている限り、希死念慮や漠然とした自殺願望の起こりは小学2年か3年の頃だ。
父の転勤について行くという理由で日本を離れていた頃。
暗い部屋、その隅に置かれたブラウン管。
適応できない環境の変化と通じない言語、煌々と唯一明るいテレビ画面では高いキンキンした声に吹き替えられたカードキャプターさくら。
自殺というものは知っていた。
姉がその数年前から見始めたコナンの影響。
バイオリンを巡ってドイツ音階にちなんだ順番で人が亡くなっていく一連の話の、落ちていくおばさんの顔がひどく怖かったように思う。
自分で命を絶つ行為が「一般的」な倫理観では良くないことだとも知らなかった頃だ。
コナンは怖いと思うくせして、己の死を想像することに恐怖は無かった。
そんな感じで常に自殺願望と衝動に浸された視界で過ごしているのだが、まあ結局まだ死ねていない。今でも死は恐ろしさよりも焦がれ願う気持ちの方が大きい。
昔の話はさておき、現在の自分の死生観を見つめてみたい。というか、おそらく9割9部愚痴。
まずそもそも、自分の理想。
ずばり、「今年中に死ぬこと」だ。
何故か?そんなの決まっている。
高校生じゃなくなるからだ。
そんなこと?と思われるかもしれない。でも、現に私には若さしかない。
若さ以外のものを手に入れる前に、唯一持っているそれは消えてしまうことがわかっている。
つまり、本当に何も無い期間が必ず存在しうること。それが耐えられない。
「大学生」にそこまで若さというバフがかからないのは制服という存在の有無だろうか。
とにかく、私には現在老い先が腹立たしいほど長すぎるということ以外に一般論的な利点がない。
頭は悪く模試の判定は不安と絶望を煽る結果ばかり、顔や体型は多少ぼかして言ってもコケシなせいで濃いめの化粧とラインの隠れる服がないと外にすら出られないしふとした瞬間スマホに映る自分の顔にすら吐き気がする。性格なんてもってのほか、声だって可愛くないし創作は評価されるどころかそもそも見られすらしない。運動能力は下の下、体だけは妙に丈夫でメンタルは不安定でメンヘラ、これ以上なく親不孝かつはた迷惑なクズ野郎である。おまけにバイトなどの経験もない。
そりゃぁ、死んだ方がいいってもんである。
私は自分の生に価値や意味及び周りに与えられるメリットがわからなかったし、見いだせなかった。
やりたいことは色々ある。趣味や好きなことだって沢山。仲良くしていたい人、もっと話がしてみたい人もいるし、希望なんてないから一応としか言えないが将来の夢だってある。
でも、どうしても、それよりも死ぬ事の方が甘美で、善いものに見えてしまう。
どうやったって、なぜか、それらと「死にたい」が共存できてしまう。
いや、共存ならまだよかった。
なんなら自殺願望がそれ以外を見えなくすることの方が多い。これを書いている今も。
悲しい話でもなんでもなく、私にとってはこれが自然であり呼吸と同じくらい無意識なものだ。
当然のように、それが生きている限り必ず起こることのように、死を望んでいる。
特段なにか心神喪失するようなことは起こっていない。経験してきたものも、所詮は「よくある不幸」に過ぎない。
一言で言ってしまえば、心が弱い。逃げ癖がある。クズ野郎きわまれり。
しかし、母には「死にたい」と思うことすら許されないと否定をされた。ここから何が続くかと言うと自己嫌悪だけしかない。ので、割愛。
それゆえの自傷癖。オーバードーズ。健康でいたくないという思考、せめてこの状態に名前が欲しいという考え。
いっそ、「お前は異常だ」と誰かに断じて欲しいだけ。ほらね、はた迷惑。
カフェインに依存していったのも、自己嫌悪から目を背けるためだけの一時的な対症療法が発端だった。
一思いに死ねるほど理性を捨てきれなかったので、薬を過剰に飲む。市販薬なので大したことは起こりっこないが、耐性がついてあまり効かなくなってはいるけれど、まぁ体のどこかは削れているだろう。そんなことを考えて、安堵する。
まるきり狂人のようだという自覚はあれど、まともなままで生きるには私の心は弱すぎた。
周りに「たすけて」と言ったところで、誰かが手を差し出してくれるような人望は私にはない。
そもそも第三者の介入でどうにかできる苦痛ではない。だってどれもこれも自分の弱さからくるものだから。
家族になんて余計に言えない。
「あなた達のせいで私は今こんなに苦しんでいる」と被害者面であの人たちを弾劾して傷つけて満足出来るほど、単純になれなかった。
いくらこの苦しさの半分よりもっと多くが家族が原因であったてしても、衣食住に教育、他にも色々、今に至るまで私に費やされてきたものをなかったことにできるわけではない。たとえ私がそれを重荷に感じて吐いていたとしても。
だから、誰にも言えない。
第三者に吐き出すだけでも?違う。その前にこんな話を滔々と聞かされる相手の不快感とその時間の無益さを想像するに決まっている。私よりもできることが多い人の時間を、私なぞのために割かせてはいけないのだから。
そんなわけで、こんな場所に書き溜めるに留まっている。
もしかすると、これが遺書のようなものになってくれないかとほんの少しの期待をかけながら。
私の主観ばかりで書き連ねてきたので見るに堪えない汚い感情ばかりになってしまった。
念の為に明記しておくが、ここに例として出た人達は何もこれに関わりはない。
結局のところ、悪いのは私自身のみだ。
私の凝り固まった自意識のせい。
死生観の話をするつもりが、「死にたい理由」「苦しさの増幅する理由」ばかりになってしまった。
ここまで読んでいる人がいるかは怪しいが精神汚染も甚だしいので、綺麗な景色の画像でも貼っておくこととする。
それでは。
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