演劇の自意識

「自分を見ろ」という欲求は、自分が既に満足するほどの注目を得ている人間には決して生じない。私はそんな人間が羨ましく、同時に酷く見下している。

何故かと言うと、そんな常人には人の心を打つものなど何も作り出せないと思っているからである。私は何も作り得ない人間が恨めしく、しかしむしろ尊敬しているのである。己の欲求に手綱をかけられる人間は立派で、それでいてどこか欠けている。何か足りない。表現には腕一本ほど及ばない。じゃあ手綱を握れずに強い気持ちを遊ばせたままの人間が立派かと言うと、そうでもない。そちらは社会的生活に足一本ほど及ばない。どちらもどちらで、足りないのである。


私はいつまでも満足できないまま生きている側の人間だろう。満たされない渇望を抱えて、底に穴の空いたバケツを抱えて生きている。しかしその欲求は満たされないからこそ私の意識を死に向かわせる。

「この人は芝居をするために生まれたのだ」と信じられたい。「この人の作るものこそ良いものだ」と盲信されたい。私は宗教になりたい。努力が報われたいのが人間だ。かけた時間に見合う成果を求めるのが人間だ。


私は、一体全く、誰でも出来るはずの、役を作り込めば、呼吸を揃えれば、足並みを揃えれば、声を揃えれば、誰でも同じ役を演じられるはず(という思想がある上で)の演劇という土壌で、「あなたじゃなきゃいけなかった」と思われたいのである。ダブルキャスト制の舞台に出演したことは無いが、ああ、しかしそうなったら、私はどうなるのだろう。自分と同じセリフを、自分と同じ感情を、自分より大きな熱量で叫ばれてしまったら、私はどうなるのだろう。きっとどこかおかしくなってしまうに違いない。もしかすると同じ役を演じたその人に信仰心さえ抱いてしまうかもしれない。それが危険なことはわかっている。翼は熱で熔け落ちるのだから。

頽廃は善だろうか。悪だろうか。淡々とくらい日々を過ごすだけの毎日は、何を生み出すだろうか。文豪の言うような口調を真似してご高説を垂れるこの文章は、何を産むのだろうか。きっとなにも産まないのだろう。産みたがりの死にたがりである。

冷静に考えれば、私は演劇というものに救われたいのかもしれない。過度な期待と夢と、歪んだ希望を抱いている。 何もかも、歪んでいる。おかしな感情をひたすら抱いている。わかっている。理解はしたが、多分受け入れられていない。私は真っ当だと主張したい訳では無いが、かと言って私は狂っていると主張したい訳でもない。もっとまともな人はいる。もっと狂った人もいる。私の周りは、狂った人の方が多いくらいの世界だ。「一番になれない」という感情ばかり抱いて、それを捨てられないでいる。

私は演劇に、「正しいだけの人間が居ない場所」としての憩いを求めている。これは確実なことである。



追記

本編中でその役として喋った口数はごく少なかったが、結構インパクトのある濃いキャラをダブルキャストでやらせていただく機会があった。結果から言うと、もう一人の同じ役のキャストさんは私よりとても「演劇」の上手い人だったが、私の気は狂わなかった。その人を盲目的に信仰することにもならなかった。ただ純粋に、ここから何か技術でもなんでも取れるものの限りを盗み取っていってやるという気持ちが一番強くあった。

それはそれで頭はおかしかったのかもしれないが、公演本番から一か月たってもセリフを覚えているくらいには楽しかった。

良い体験だったが、自分の本所属の団体はとてもダブルキャストなどやれる人数ではないので、得られないものに焦がれるばかりの日々が始まっただけだった。

人生エラー

カフェイン依存系鍵垢在住底辺字書きの墓場

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